西田の坐禅を飲みながら『善の研究』を読む

受験シーズンのこの時期、少し心が落ち着かないときは、草原の香りが特徴の西田の坐禅がオススメですが、それでも落ち着かない時は『善の研究』を読むといいかもしれません。

「純粋経験に於いては知情意の分離なく、唯一の活動である様に、又未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上に於いては唯独立事前の一事実あるのみである、見る主観もなければ見らるる客観もない。恰も我々が美妙なる音楽に心を奪はれ、物我相忘れ、天地唯嚠喨たる一楽聲のみなるが如く、此刹那所謂真実在が現前して居る。之を空気の振動であるとか、自分が之を聴いているとかいふ考は、我々が此の実在の真景を離れて反省し思惟するに由つて起こつてくるので、此時我々は己に真実在を離れているのである。」

西田幾多郎『善の研究(岩波文庫)』1950年、p.64

 

「美妙なる音楽に心を奪はれ、物我相忘れ、天地唯嚠喨たる一楽聲のみなるが如く」というくだりを読むと、西田幾多郎も、音楽を愛する人だったのかもしれない、と思わされます。木村敏先生の哲楽インタビューも合わせてどうぞ。